広島・呉・江田島〜映画の舞台と戦争遺跡を訪ねて(2)

同じかたちの蔵が3つ連なる「三ツ蔵」 呉という地名は、この地を囲む9つの峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼び、それがなまって「くれ」となったといわれている。ドライブの後半では、まずはその九嶺のひとつであり、呉の街と港を一望にできる「灰ヶ峰」の展望台へと向かった。山から下りて、呉の市街地で「三ツ蔵」や「旧下士官兵集会所」など、映画『この世界の片隅に』のロケ地を巡ったあとは、国道487号線を南下。「音戸の瀬戸」をわたって、瀬戸内海に浮かぶ島しょ部へと車を走らせた。
倉橋島や能美島、江田島では海岸沿いの道路が続き、穏やかな瀬戸内海の景色を眺めながらの爽快なドライブを楽しめた。江田島で「海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)」を見学し、その後は倉橋島南部の「桂浜」へ。着いたのは日没間近の時間になってしまったが、かえって暮れなずむ海と空の美しい風景を堪能でき、この日のドライブを最高のかたちで締めくくることができた。

ドライブルート

広島市中心部−江波−吉島IC−(広島高速3号線、広島呉道路)−呉IC−呉市中心部−(国道185号線、県道174号線など)−灰ヶ峰−(県道174号線、国道185号線、国道487号線)−音戸−(県道35号線、国道487号線、県道44号線)−江田島−(県道44号線、国道487号線、県道35号線)−桂浜−呉市中心部

全行程 約150km、今回行程 約110km

<赤いドライブルート付近のマーカーをクリックするとその項目にジャンプします>

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灰ヶ峰

『この世界の片隅に』の主人公・すずが嫁いだ呉の北條家は、長ノ木という山すその地区にあり、劇中ではたびたび家の近くの段々畑から呉の市街地や港を見下ろすシーンが描かれていた。現在の長ノ木地区は住宅が密集しているために展望が得られないが、「灰ヶ峰」の山頂まで上がれば呉市街と港を一望にできると聞き、車を走らせた。

  • 呉の市街地を走る。右手前方の山が灰ヶ峰。目を凝らすと山頂のレーダードームも見える

    呉の市街地を走る。右手前方の山が灰ヶ峰。
    目を凝らすと山頂のレーダードームも見える

  • 県道174号線から、案内看板に従って右折。細い山道に入っていく

    県道174号線から、案内看板に従って右折。
    細い山道に入っていく

山頂に建つ気象レーダー観測所

山頂に建つ気象レーダー観測所

呉の中心部からおよそ40分。カーブを繰り返しながら山道を登っていくと、やがて白いドームをいただく気象レーダー観測所が見えてきた。そこが灰ヶ峰の頂上だった。標高は737m。山頂には円形の展望台もあり、三方を山に囲まれた呉市街をはじめ、山を越えた隣町の阿賀や広、さらには似島、江田島、下蒲刈島、上蒲刈島など瀬戸内海に浮かぶ島々を眼下に望めた。
ちなみにこの展望台は、かつてこの場所にあった高角砲防空砲台の基部をそのまま利用しており、戦争遺跡でもある。

  • 灰ヶ峰の展望台から呉市街と港を眺める。人気の夜景スポットでもある

    灰ヶ峰の展望台から呉市街と港を眺める。人気の夜景スポットでもある

三ツ蔵(旧澤原家住宅)

映画の中で、すずが北條家と呉の街を行き来する際、同じかたちの建物が3つ並んだ印象的な景観の通りを歩いていく姿が何度か描かれている。その建物は「三ツ蔵」と呼ばれ、国の重要文化財「旧澤原家住宅」の一部として、今も呉の住宅街にそのままの佇まいで残っている。
澤原家は、江戸時代には庄屋を、明治以降は貴族院議員や呉市長などの要職を務めたこの地域の名家で、三ツ蔵のほかに主屋や表門なども現存。主屋は宝暦6年(1756)、三ツ蔵は文化6年(1809)の建築で、江戸時代の呉の街並みを感じさせてくれる貴重な建物である。

  • 同じかたちの蔵が3つ連なる「三ツ蔵」

    同じかたちの蔵が3つ連なる「三ツ蔵」

  • 三ツ蔵の裏面は漆喰塗りとなまこ壁に。狭い通りをはさんだ東側には主屋などが建つ

    三ツ蔵の裏面は漆喰塗りとなまこ壁に。
    狭い通りをはさんだ東側には主屋などが建つ

入船山記念館

右の時計は、呉海軍工廠造機部庁舎屋上に設置されていたもので、戦後にこの地に運ばれて整備・復元された

右の時計は、呉海軍工廠造機部庁舎屋上に設置されていたもので、
戦後にこの地に運ばれて整備・復元された

旧呉鎮守府(現・海上自衛隊呉地方総監部)の近く、古くから入船山と呼ばれる小高くなった一帯に「入船山記念館」はある。敷地内には、旧呉鎮守府司令長官官舎、旧呉海軍工廠塔時計、旧東郷家住宅離れ、郷土館、歴史民俗資料館など、呉の歴史に触れる建物や建造物が点在していた。
かつては神社が鎮座する神域とされてきたこの地に海軍の施設が建設されたのは、呉鎮守府開庁の翌年(明治23/1890年)のこと。はじめは軍政会議所兼水交社(日本海軍将校の親睦・研究団体)として洋風木造2階建ての建物が建設されて、同25年(1892)から呉鎮守府司令長官官舎として利用されるようになった。しかし、その建物は明治38年(1905)の芸予地震で倒壊したため、同年廃材の一部を利用して再建。現在見ることのできる長官官舎は、明治38年再建の建物を復元したものだ。
訪れたときは洋館部分の外壁工事のため、外観を眺めることはできなかったが、内部の見学はできた。建物は木造平屋建てで、公的なスペースである洋館部と生活空間である和館部からなっている。洋館部の壁には、部屋ごとに異なる「金唐紙」(金唐革に似せた高級擬革紙)が貼られていた。金唐紙の壁紙は、日本国内でも数ヵ所にしか現存していない珍しいものだという。

  • 音戸の瀬戸近くの高烏砲台にあった火薬庫。総石造りの火薬庫は全国でも珍しいそう

    音戸の瀬戸近くの高烏砲台にあった火薬庫。総石造りの火薬庫は全国でも珍しいそう

  • 入船山の歴史や旧呉鎮守府司令長官官舎に関する資料を展示する郷土館

    入船山の歴史や旧呉鎮守府司令長官官舎に
    関する資料を展示する郷土館

  • 郷土館の展示室の様子

    郷土館の展示室の様子

  • 旧呉鎮守府司令長官官舎の客室

    旧呉鎮守府司令長官官舎の客室

  • 洋館部の壁や天井には「金唐紙」と呼ばれる壁紙が貼られていた

    洋館部の壁や天井には「金唐紙」と呼ばれる
    壁紙が貼られていた

  • 長テーブルがおかれた食堂

    長テーブルがおかれた食堂

  • 和館部は、長官とその家族の住居として使用された

    和館部は、長官とその家族の住居として使用された

  • 旧東郷家住宅離れは、東郷平八郎が呉に在任していたときに住んだ家の離れ座敷を移築したもの

    旧東郷家住宅離れは、東郷平八郎が呉に在任していた
    ときに住んだ家の離れ座敷を移築したもの

呉医療センターの敷地へと登っていく階段。かつてこの先には海軍病院があった

呉医療センターの敷地へと登っていく階段。かつてこの先には海軍病院があった

入船山記念館の周辺には『この世界の片隅に』のロケ地もいくつかある。
記念館の入口門の目の前、呉医療センターの敷地へと登っていく階段は、すずが姪の晴美とともに入院している義父を見舞いに行くシーンで登場する。階段の上には戦前までは海軍病院があり、戦後は連合国軍に接収されたものの、のちに返還されて呉医療センターとなった。
現在「海上自衛隊呉集会所」として使用されている国道487号線沿いの建物は、以前は「下士官兵集会所」で、すずが夫の周作に帳面を届けに行くシーンに登場する。今は赤レンガ色に塗られてしまっているが、劇中ではスクラッチタイルのモダンな外観だった建築当初の姿で描かれている。
/入館料 250円、TEL 0823-21-1037

  • 現在「海上自衛隊呉集会所」として使われている建物。建設当時はスクラッチタイルのモダンな外観だった

    現在「海上自衛隊呉集会所」として使われている建物。建設当時はスクラッチタイルのモダンな外観だった

音戸の瀬戸公園

音戸の瀬戸は、本州と倉橋島の間にはさまれた海峡で、平安末期に平清盛が沈む夕日を招き返して1日で開削したという伝説が残る地でもある。その本州側の一帯、22.1haもの広大な敷地に広がるのが「音戸の瀬戸公園」だ。
車で5分ほど登ったところ、園内のもっとも高い場所にある高烏台には「平清盛公日招像」が建っていた。眼下には、音戸の瀬戸や海峡に架かる2つの橋(音戸大橋と第2音戸大橋)、対岸の倉橋島はもちろん、光り輝く瀬戸内海と点在する大小の島々、そしてさらに遠くには四国まで望むことができた。まさに瀬戸内の多島美を堪能できる展望スポットだった。
園内には桜やツツジ、アジサイなどが植えられ、3月下旬から4月上旬にかけては約2,300本の桜が、4月下旬から5月初旬には約8,300本の紅白のツツジが咲き乱れ、公園を色鮮やかに彩るそうだ。

  • 園内の高烏台から音戸の瀬戸を眺める。海峡には音戸大橋(左)と第2音戸大橋(右)の2本の橋が架かる

    園内の高烏台から音戸の瀬戸を眺める。海峡には音戸大橋(左)と第2音戸大橋(右)の2本の橋が架かる

  • 高烏台からは瀬戸内海と海に浮かぶ島々もきれいに望めた

    高烏台からは瀬戸内海と海に浮かぶ島々もきれいに望めた

  • 平清盛公日招像。沈む夕日さえも思い通りに操ったという伝説から、当時の平家の権勢がうかがえる

    平清盛公日招像。沈む夕日さえも思い通りに操ったという
    伝説から、当時の平家の権勢がうかがえる

  • 高烏台には戦時中まで防空砲台があり、石組みの砲台跡や兵舎跡(写真)が残っていた

    高烏台には戦時中まで防空砲台があり、石組みの砲台跡や兵舎跡(写真)が残っていた

  • 海峡近くの見晴らしのいい場所には、小説「新平家物語」を著した吉川英治の文学碑が建つ

    海峡近くの見晴らしのいい場所には、小説「新平家
    物語」を著した吉川英治の文学碑が建つ

  • 海峡のこちら側に停泊している小さな船は、対岸に渡る「音戸渡船」。乗船時間は約3分で、日本一短い定期航路と呼ばれている

    海峡のこちら側に停泊している小さな船は、対岸に渡る「音戸渡船」。乗船時間は約3分で、日本一短い定期航路と呼ばれている

清盛塚。海上にあるため、道路から海に延びるデッキから眺める

清盛塚。海上にあるため、道路から海に延びるデッキから眺める

清盛塚

「清盛塚」は、音戸大橋の倉橋島側のたもと近くにひっそりと建っていた。
音戸の瀬戸を切り拓く際、清盛は、当時大工事を行うときに献じていた人柱の代わりに、一字一石の経石を海底に沈めて難工事を完成させたといわれている。そんな彼の功徳を称えて、清盛が亡くなったあとの元暦元年(1184)、この塚が建立されたと伝えられている。周囲49mの石垣に囲まれた塚の中央には、高さ2mほどの宝篋印塔(ほうきょういんとう。宝篋印陀羅尼の経文を納めた塔)が建つ。

海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)

大正6年(1917)建設の大講堂。こちら側は一般の人が出入りする「平民門」で、反対側には天皇や皇族専用の玄関があった

大正6年(1917)建設の大講堂。こちら側は一般の人が出入りする
「平民門」で、反対側には天皇や皇族専用の玄関があった

倉橋島に入ってからは海岸沿いの県道35号線をひた走り、早瀬大橋をわたって能美島へ。そこから一路北に向かって車を走らせて、江田島の「海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)」をめざした。
海軍士官養成機関である「海軍兵学校」が、東京・築地から江田島に移転してきたのは明治21年(1888)のこと。以来、第二次世界大戦終戦までこの地から数多くの海軍士官を輩出してきた。戦後は米軍や英軍の管理下におかれるが、昭和31年(1956)に返還されると横須賀から海上自衛隊術科学校が移転。その後、海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校となり、現在に至っている。
海上自衛隊の現役の教育施設であるため、校内を自由に見学することはできず、1日3回(土・日・祝日は4回)の定時見学の時間が設けられている。見学ツアーに参加すると、ガイドの説明を聞きながら、大正6年(1917)に完成した「大講堂」、レンガ造りの外観が美しい「海軍兵学校旧生徒館」、日本海軍の歴史にまつわるさまざまな史料が展示された「教育参考館」などを見てまわることができる。

  • 大講堂内部。現在も入校式や卒業式などの行事に使われており、ちょうど卒業式の準備のために椅子が並べられていた

    大講堂内部。現在も入校式や卒業式などの行事に使われており、
    ちょうど卒業式の準備のために椅子が並べられていた

  • 明治26年(1893)建設の旧海軍兵学校生徒館。レンガ造りの外観が美しく、建物の長さ(正面から見た横幅)は144mにもなる

    明治26年(1893)建設の旧海軍兵学校生徒館。レンガ造りの外観が美しく、
    建物の長さ(正面から見た横幅)は144mにもなる

  • 現在は幹部候補生学校庁舎として使われている

    現在は幹部候補生学校庁舎として使われている

  • 教育参考館。約1万6,000点の日本海軍関連の史料を収蔵し、うち約1,000点を展示している

    教育参考館。約1万6,000点の日本海軍関連の史料を収蔵し、
    うち約1,000点を展示している

  • 教育参考館の前に展示された、戦艦大和の主砲砲弾

    教育参考館の前に展示された、
    戦艦大和の主砲砲弾

教育参考館は、かつては海軍、現在は海上自衛隊が管理する史料館だけに、その展示内容は質・量ともにすばらしく、東郷平八郎元帥の遺髪室にはじまり、日本海軍の生みの親ともいえる勝海舟が坂本龍馬と並ぶ写真、歴代海軍士官たちの写真や書や遺品、特攻隊員たちの遺書など、ほかでは見ることのできないような貴重な史料の数々を目にすることができた。
ガイドの話によれば、校内には軍歌「同期の桜」と同じ名前で呼ばれる桜の古木があるそうで、年に1日だけ一般公開される日があるという。
見学時間はおよそ1時間30分。はじめは「長いかな」と思っていたが、歴史的な建物や史料に目を奪われて、あっという間に過ぎていった。
/見学無料、TEL 0823-42-1211

  • せっかくなので、校内のレストランで「海軍カレー」(600円)を食べた

    せっかくなので、校内のレストランで
    「海軍カレー」(600円)を食べた

  • 売店もあり、土産物などを買える。写真は、一番人気だという「兵学校のカレー」

    売店もあり、土産物などを買える。
    写真は、一番人気だという「兵学校のカレー」

夕方は刻一刻と空の色が変わっていく。薄紅色の空をバックに、島々のシルエットが浮かぶ

夕方は刻一刻と空の色が変わっていく。
薄紅色の空をバックに、島々のシルエットが浮かぶ

桂浜

江田島から倉橋島に戻ったあとは進路を南にとり、県道35号線を走って島の南海岸にある「桂浜」へと向かった。
桂浜は、松原の緑と白い砂浜、青い海のコントラストが美しい風光明媚な海岸で、古くから景勝地として知られており、「万葉集」にも詠まれている。着いたのは夕方だったため、残念ながら光り輝く海岸線の景色は見られなかったが、代わりに大小の島々のシルエットが浮かぶ、暮れなずむ海と空の風景を存分に味わうことができた。

  • 波が静かに打ち寄せる砂浜に沿って松原が広がる

    波が静かに打ち寄せる砂浜に沿って松原が広がる

  • 海岸に建つ「万葉集史蹟の碑」

    海岸に建つ「万葉集史蹟の碑」

「長門の造船歴史館」の復元遣唐使船を砂浜から眺める

「長門の造船歴史館」の復元遣唐使船を砂浜から眺める

倉橋島は古くは長門島と呼ばれ、造船の島として全国的にも有名だったという。推古天皇の時代から奈良時代にかけては外国使節団用の船を造った記録があり、江戸時代の享和年間(1801〜1804年)に造られたという日本最古のドック跡も残っていた。また、江戸時代以降には、宮島・厳島神社の管絃祭(※)の御座船が倉橋島で建造されて奉納されてきた歴史もあり、海岸近くには昭和37年と61年(1962、1986)に建造された船が展示されていた。
海岸沿いに建つ「長門の造船歴史館」では、古代から現代までの木造船模型をはじめ、造船と海運業に関するさまざまな資料を展示。館の中央には、全国でここにしかない復元遣唐使船が展示されていた。県道35号線をはさんだ向かい側には「桂浜温泉館」があり、立ち寄り湯や買い物、食事などを楽しむこともできる。

  • 海岸のすぐそばの「桂浜神社」。創建年代は定かではないが、天平年間(729〜749年)にはこの地に鎮座していたといわれる

    海岸のすぐそばの「桂浜神社」。創建年代は
    定かではないが、天平年間(729〜749年)には
    この地に鎮座していたといわれる

  • 桂浜の目の前にある「桂浜温泉館」。日帰り温泉が楽しめる

    桂浜の目の前にある「桂浜温泉館」。
    日帰り温泉が楽しめる

  • 桂浜近くに展示されていた、厳島神社管絃祭の御座船

    桂浜近くに展示されていた、厳島神社管絃祭の御座船

※管絃祭……厳島神社で、毎年旧暦6月17日の大潮の日に行われる海上渡御を目的とした祭り。

ニッポンレンタカーの車種・料金

詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。

広島県内のニッポンレンタカー営業所

ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、広島県の営業所リストをご覧いただけます。

ひろしまナビゲーター
広島観光コンベンションビューローによる。観光情報を検索したり、モデルコースの案内やムービーが見られる。
呉観光協会
呉の見どころやグルメ、お土産、まちあるきマップなどのほか、期間限定で桂浜のパノラマ画像も見られる。

記事・写真:谷山宏典 取材:2017年2月

  • ※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。